2006東京国際マラソン 自戦記

前日まで
名岐駅伝の一週間後という時期では走り込みの練習を直前までできない。年末年始の走り込みとスピードの余裕でこのマラソンを走るということになる。年末年始の長距離走練習のやりくりには苦労した。12月18日にセカンドウィンドさんの40㌔走を予定したが、数十年ぶりの大雪でできず。何とか25日の天白川走友会さんの長距離走に参加させていただき、何とか40㌔走は一回こなせた。ただ、その前後の天候は最悪でこの日は暖かくて無風、本当に恵まれた日であった。その後高専の合宿で25㌔走。そして、1月3日の走り初め30㌔走も悪天候でスポーツジムのトレッドミルで25㌔走。最後に1月7日、雪も降りそうな寒い中で名城公園30㌔走を敢行した。その後は毎週土曜日のペース走練習で1月21日に20㌔走(1時間14分51秒/13周)を行った。途中に西春マラソンのレースでスピード持久力をチェック。結構走れたので、昨年よりは充実していると実感。名岐駅伝でもいい走りができたので、あわよくば好記録ということも頭の隅にあった。
前日 いろいろ見物
犬塚家一家での移動となり、お約束の家族旅行となった。子どもの電車ブームのため、新幹線で東京駅到着後はホームの端に行っていろいろな新幹線を見たり、在来線では駅に降りたら乗った電車が動いて見えなくなるまでホームに残るなど、なかなか目的地にたどり着くことはできなかった(右写真はイメージ写真です)。しかし、これも折り込み済みで一応予定通りに競技場に到着、受付をすました。この日からすでに強風が吹き、明日は大変なレースになりそうだと思いながら、今回の宿、競技場横の日本青年館に到着した。荷物をおいた後、外にジョグに出かけた。神宮外苑は週末は歩行者天国となり、道路いっぱい使って走ることができる。しかし、私がジョグする頃は人は少なくて道路を走っている人は少なく、同業者も多くはいなかった。外苑中の絵画館前の道路にチームメートのM島選手を見つけて、飯田橋までのコースの試走に誘った。いわゆる最後の坂を偵察しにいった。信濃町駅を越えて四谷三丁目の交差点を右折して、四谷駅前へ向かう。この辺りから少し下っているなと思いながら四谷駅前の交差点を左折。しばらくして傾斜が急になる。「ここか」と思いながら坂を下るとすぐに傾斜が緩やかになった。「あれ?」以外にも短かった。そして、すぐそこに市ヶ谷の駅があり、この駅を目印にすればよいかと思った。飯田橋駅前の交差点までジョグして傾斜はたいしたことはないを確認。帰りは来た道をそのまま辿っていった。今考えれば、この下見がかなり精神的に楽になったことを実感した。
宿にて はしゃぐ、子ども
下見から戻って部屋に戻ると子どもが大はしゃぎをしていた。外の廊下でも声が聞こえていた。妻が作ってくれている給水の飾りのテープを勝手にもっていって、自分も妻の真似をしてボトルに貼ろうとして怒られていた。やはり行ったことのない場所に行けばはしゃぐのは仕方ないことではあるが、こんな調子では緊張できるわけがない。妻のボトル製作が手間取るため、子供と一緒にホテルの大風呂に入りに行く。6時半くらいに行ったせいか、一、二人しかいなかった。子どもも風呂内で騒いでも周りに迷惑をかけることもなく安心(しかし、更衣室内では案の定走り回った)。
その後、チームメートとともに今晩の夕食の場所を探しに外出する。近くに有名な?ラーメン屋があったが、メニューが麺類+αしかなくて断念。別の場所を探しに行った。しばらく、歩いていると中華料理屋を発見。店頭のメニュー表を見て手頃だったので、入ることにした。ここの料理は結構おいしく、隣の席に座っていた馴染みのお客さんからメンマ?をいただいた。地元の馴染みの中華料理屋と比べながらいろいろと食べた。結構おいしかった。次回もここに来ようと思ったが、もう東京国際マラソンはなくなるのでもうこれないのかと思うとちょっと残念だった。帰りに少し買い物をして宿に戻る。ビールを飲みながらぼーっとTVを見て適当な時間に寝た。
6時に目覚ましで起床。朝練で外苑を散歩&ジョグ。風が冷たくて強い。朝からこれだけ強いと昼はどうなるのかと半ばあきらめながらも体を動かす。この時間でもこのあたりは人も車も少なかった。ただ、外苑周回コースの起点(0㍍地点、ちなみに1周は1300㍍で名城公園とほぼ同じ)のちょっとした広場にはラジオ体操のおじさんおばさん達が集まっていた(この光景は東京でも同じだったのか。ということは全国どこでもいっしょなのかとふと頭によぎった)。輪の真ん中にはラジカセがおいてあり、中心に近いほど位が高い人なのかと想像しながらその横をジョグで通り過ぎた。外苑を半周回った辺りに周辺の地図があったので、それを見ながらストレッチ。すると、SANYOのM.ムワンギ選手がウォーキング、ジョグを始めた。その後自分はM選手とは逆周りにジョグした。しかし、M選手とはすれ違わなかったので、コースでもジョグしに行ったのかと思った瞬間、反対側の茂みの中で何か動くものを発見、ふっとそちらに向くとM選手が走っていた。風を避けるためかもしれないかどうかわからないが、何か違和感を感じた。
8時半から9時半までの給水受付のために競技場に行く。支給された給水ボトルに飾り付けをしているものがほとんどなく、自分のものが非常に目立っていた。おかげで間違えずにすべて給水は取ることができた。40キロのボトル受付のところで大学時代のクラブの後輩と再会。今日は40キロの給水の係をするらしく、一番きついところで元気をもらえそうだ。彼も忙しそうだったので、簡単な話をして別れた。今日はとにかく風が冷たく、強かった。
アップ 緊張感なし
ホテルを9時半頃にチェックアウトしていよいよ国立競技場へ移動した。初めての場所なのでどこから入ったらよいか困ったが、進入禁止ならばガードマンに止められると思って近くの適当な場所から入った。しばらく廊下を歩いて選手の控え室(左写真)に到着。ここからは選手しか入れないようで、妻とはここで別れた。更衣室に入ると大学つながりの知り合いに会い、しばらく話をする。出走までの準備の流れを聞く。荷物の移動、ロゴのチェックなど。ロゴのチェックなんか初めての経験だ。フルにウォーミングアップなんか特に必要ないので、暇をもてあました。たまに高岡選手が近くを通り過ぎる。やはり背が高かった。そのうちに係員が11時になったらロゴチェックをするのでレースの格好をして集合せよ、と連絡する。1時間前にユニホームを着なきゃいけないのか!と、少々不条理を感じながら11時10分くらい前にユニホームに着替えてチェックの準備をする。チェック場所がまた狭いところ(左の写真の奥)で大混雑。なんとかならないものかと大会規模と運営状況とのギャップを感じた。自分の番になる。チームのロゴの下の細かい英文にクレームが付き、ナンバーカードで隠すようにと指導を受けた。一応カードを付け直したが、その後のチェックはなかった。結構いい加減だった!
再び、アップ用に服を着替える。スタート45分くらい前になるとみんなアップのためにトラックに出るので、自分も出て一応ジョグをする。トラック内でも結構風が強い。5周くらい走ったところでやめる。適当にストレッチしていると、高岡選手がアップをしていた。レースでは絶対に一緒に走れないので、このときとばかりに彼の後についてアップをする。(このときに私のウィンドブレーカがTVに映ったようだ)携帯で写真を撮ろうと思ったがさすがにやめた。1周付いたところで終了。さすがにアップも早い。以前福岡国際の時に早田(俊幸)選手のアップに付こうと思ったが、あまりに速すぎてつけなかったのを思い出した。
0-5k ずれていたペース感覚
最後尾に並んだので、スタートは遅めだった。(右写真)最初の400mが88秒と少々遅かったので、ペースを上げて1000mは3分35秒くらいで通過。ややペースをつかめたかに思えたが、競技場を出て2キロの通過も7分そこそこで少々早いがこんなものかと集団の流れに身を任せた。四谷駅前の交差点を左折していよいよ下り。なるべくペースアップしないように自重して下る。そして、5キロの通過は17分23秒。自分のペース感覚よりも早いタイムであるが、下り坂がこの感覚のずれのせいと思った。
5-10k 覚悟を決める
坂を下りきって飯田橋の交差点を通過。平坦になったものの、ペースはあいかわらずキロ3分30秒といまだに感覚のずれは解消されなかった。ここで、周囲のペースがアップしてどんどん抜かれはじめた。思ったよりもカラダが軽いという良い方のずれなので、このペースアップに付いて行こうかと一瞬よぎったが、今までの練習状況を考慮するとそこまでの勇気はなかった。このずれた感覚は今日の調子のものと修正し、このペースのまま行こうと決めた。このペースで最後まで押せれば、2時間27分台だからもうけものと開き直った。
10-15k リラックス
ここからは完全に一人旅になった。はるか前の方に集団が見えるものの、いい目標になった。沿道の応援の人たちから元気をもらう。ただ、かなり後(このあたりでは最後尾から7番目と、あとから知る)だったので哀れみの応援かもしれなかった。でも、この状況はいつものこと(びわ湖ではダントツ最後尾で走ったこともあった)なので、声援には明るく答えたりもした。ここでは日が差して風もないので、少々暑かった。風がなかったのは追い風だったためで、もっとこのことに早く気づくべきだった。
15-20k 潮目が変わる
15キロ過ぎる頃からはるか前の集団から一人、また一人と選手が離れはじめ、彼らを抜くようになり、順位も上がってきた。経験則で、いつもこの辺りの距離から選手の集団の流れが自分から離れる方向から、自分に近づいてくる方向へと、つまり潮目が変わる。この5キロも前の5キロ同様に無風、日差しがあって快適に走ることができた。途中、品川駅で妻と子どもが応援してくれ、元気をもらった。(左写真)
20-25k 天国と地獄
20キロの通過が1時間10分14秒と、5キロ17分30秒ペースからわずか14秒遅れだった。この調子ならばひょっとしたら自己ベスト更新とタヌキの皮算用をし始めた。まもなく、ハーフを通過。1時間14分05秒。後半ペースアップしないと無理となり、自己ベストは断念し、(2時間)30分切りに目標を変更した。30分切りは数年ぶりだ。そんなことを考えながら平和島の折り返しが近づいてきた。チームメートのK島選手との位置を確認し、折り返し点を示す大円錐を回った。その瞬間、今までの小春日和の陽気が一気に冷たくて強い向い風が襲ってきた。「そうか、今までは追い風だったからカラダが軽かったんだ!」まさに天国が地獄へと変わった瞬間であった。コース図からすれば水道橋の辺り(36キロ付近)までの約15キロはこの強風に耐えなければならないのか!と、妙なところで冷静な計算ができても集中力、気力が萎えるだけだ。22キロあたりで折り返しだったので、まず向かい風で3キロ走った25キロの通過タイムでこのあとの戦略を考えることにした。
25-30k なぜか動く脚
20-25キロの5キロが17分34秒と、向かい風の中を数キロ走ったにもかかわらずペースが落ちていない。少々無理めの走りをしているが、これならばいけるのではないかと思った。新八ツ山橋の跨線橋が上りの向かい風でこれには参った。みんな風に煽られて道路の右端を走っている。自分もそうなった。はるか前方を見ると見事に選手が一直線に並んでいた。みんな風よけのために前の選手に隠れているためだ。自分のペースは不思議なことに、あいかわらず1キロ3分30秒辺りのペースを維持することができていた。このあたりではもうゴボウ抜き状態で、面白いくらいに選手を追い抜くことができた。
30-35k 30分切りが視野に
30キロは1時間45分25秒で通過し、この5キロ(25~30㌔)は17分37秒でカバーできた。しかもまだマラソンの壁の兆候はなかった。相変わらず脚のピッチは衰えなかった。30キロ通過は5キロ17分30秒ペースよりもわずか25秒の遅れだ。あと5キロ我慢すれば、この強風から解放されることを考えたら、30分切りはおろか、28分台も見えてきた。30分切りが確実に視野に入ってきた。このあたりになるとビルによって風が遮られるようになり、向かい風も若干弱くなったような感じだった。
35-40k 立ちはだかる二つの壁
この5キロも17分45秒のペースでほぼイーブンだった。しかし、この辺りから少々脚が重くなり、ピッチが維持できなくなってきた。この35キロからの1キロが3分36秒かかり、とうとうマラソンの壁が立ちはだかってきた。しかし、このペースでもまだ前を抜くことができるペースであった。飯田橋の交差点を過ぎていよいよあの上り坂がやってくる。しかし、カラダがだんだんとしびれてきた。市ヶ谷駅横で10名くらいの集団に追いつく。そこには来季からチームメートになるM岡選手がいた。この集団についていけば楽だろうと思っていたが、途中の通過タイムが5キロ18分以上になっており、ここでペースダウンすることを考えると30分切りは難しいと判断し、自分のペースで抜きにかかった。奇しくもちょうどそこが一番の急坂になってしまったが、ここが正念場と思い、ペースを上げて攻めの走りでのぼりにかかった。何とか集団を後にして上りきった四谷駅前の交差点では精根尽き果てて全身がしびれた。残りはまだ3キロ。30分切りは無理だと考えてしまい、気持ちが切れたとたんに集団が後から抜きにかかった。集団の後あたりになったところで40キロの通過となった。マラソンの壁と市ヶ谷の壁のような坂。二つの壁に襲われた。
40-GOAL 切れてもつなげた気持ち
40キロの通過は2時間21分36秒。この5キロは18分26秒。このペースでいくとゴールタイムは・・・と血糖値の下がりきった血液が送られた頭で必死に計算する。5キロ18分だとキロ3分36秒で2倍プラス40秒で・・・8分・・・。「(30分)切れる」と考え直し、切れた気持ちをもう一度奮い立たせ、ちょうど前にいた選手を必死に追走した。丁度いいペース。信濃町駅で残り1キロ。2時間25分台だったか。気持ちが「(30分切りが)何とか」から「確実に」なった。こうなるとカラダは何とか動くもの。競技場に入ったところでM岡選手の猛然なスパートが炸裂して、あっという間において行かれた。残り400mで2時間28分を切るくらい。ようやく30分が切れた喜びをかみしめながら残り400mを走ってゴール。2時間29分25秒、48位だった。
ゴール後 大きな満足感と少ない疲労
30分切りの余韻に浸りながらナンバーカードのトルソータグをはずして荷物置き場に戻る。(右写真)なぜか今までのどのフルマラソンよりも筋肉痛がないのに気づく。失敗したレースでは自分の練習不足を思い知らされるような筋肉痛に襲われる。ただ、自己ベストを出すなどの快走したときはマラソンだけでなくトラックレースでも筋肉痛は少ない。自分がフルで自己ベストを出したときは激しい筋肉痛に襲われたが、今回のような状態は不思議な感じだ。
自己分析 わからない快走の理由
今回は完走目的という気楽な心構えが良かったというだけで走り切れたとは考えられない。前半のハーフと後半のそれとの差はわずか1分20秒。後半の強い向かい風を考えれば後半ペースアップと考えても良い。このスタミナはどこで身に付いたのだろうか。昨シーズンの日比野賞(2時間32分43秒)に至るまでの練習と今回までの練習で大きく違う点が一つあった。それは毎週土曜日の20キロ走だろうか。6月下旬からはじめたこの練習。ペースはキロ4分(名城公園周回1周5分12秒)とゆっくりとしたペース。カラダで感じる強度でペースが決まるために、涼しくなってきた頃から徐々にペースアップする。開始当時は暑いこともあってキロ4分が維持できないほどであったが、8月の下旬頃から何とかキロ4分でいけるようになり、11月くらいでは3分50秒(同1周5分00秒)まで上がった。近い時期に試合がない限りは毎週行っていた。その効果がではじめたのは秋のトラックレースから。自分だけでなく、一緒に行ってきたチームメートも好記録をマーク。ロードレースでも好記録が続出した。自分のタイムでは、秋からのレースにおいて5000m15分11秒、ハーフ1時間09分44秒(名古屋ハーフ)と好記録が出た。特に名古屋ハーフは走るには暑い中でのレースだったので、ペース走の効果が出たものと思われる。その後は西春マラソン、名岐駅伝と好タイムをマークできた。ただ、10000mに関しては残念ながら好記録はマークできなかった。10000mのための練習ができていなかったのかもしれない。
通過タイムとスプリットタイム
5km | 10km | 15km | 20km | 25km | 30km | 35km | 40km | GOAL
|
17.23 | 34.57 | 52.43 | 1.10.14 | 1.27.48 | 1.45.25 | 2.03.10 | 2.21.36 | 2.29.25
|
17.23 | 17.34 | 17.46
| 17.31 | 17.34 | 17.37 | 17.45 | 18.26 | 7.49
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(40㌔~GOALまでの5キロ換算 17:48) Half 1:14:05
ランネット掲示板から抜粋
高岡が教えた「上り坂攻略法」とは?
35.5km、ついに入船が高岡の前に出ようとした、次の瞬間、高岡が集団から飛び出していった。それまで4人で先頭集団を形成していたレースが「動いた」のはこの場面だった。高岡が仕掛けたことで、それまで集団にいたコリル、入船の2人は遅れだしたが、トロッサはペースアップに対応し、逆にスパートをかけて高岡を置き去りにした。高岡は「全くついていくことができなかった」という。その後も高岡は粘って2位を死守したが、この時点で決着はついていたのかもしれない。
東京国際マラソンで勝つためには、36kmからの上り坂を克服することが大事。昨年このコースで優勝している高岡は、同僚の入船に「東京の坂をどうすれば上れるか」を聞かれたことがある。返した答えは至ってシンプル。「トップで行けば上れるよ」だった。終盤で疲労がたまっていても、先頭を走っていれば苦しい坂道も克服できる。昨年、身をもって知ったことだった。
自分が言ったその言葉通り、高岡は坂に入る手前でスパートしたが、先頭で坂を走ることはできなかった。伊藤国光監督は、「12月末にケガで1週間、練習を休んだが、40km走をもう1本やっておけば違っていたかも」と語った。ただ、ズルズル後退するのでなく、最後まで粘れたことで「今大会での収穫はあった」という。高岡は今年12月開催のアジア大会代表に選ばれる可能性があるが、来年の大阪世界陸上を目指すべく、同月開催の福岡国際マラソンに照準を合わせる模様。
ランナーを苦しめた向かい風
レースはキロ3分ペースのイーブンペースで進み、2時間6分台も期待されたが、終わってみれば優勝タイムは2時間8分58秒(トロッサ)。高岡のタイムも2時間9分31秒とふるわなかった。その要因は、後半の向かい風に他ならない。20kmまで5km15分のペースで刻んできた先頭集団は、折り返してから15分24秒、15分30秒とペースを落としていった(ペースメーカーが外れてからの30~35kmは15分54秒に)。2時間4分台の自己ベストを持つサミー・コリルは、先頭を走ることで風の影響をもろに受け、体力を消耗したようだ。
ランナーを苦しめた向かい風について、参加選手の1人、能城秀雄さん(トラック100kmアジア記録保持者)はこう証言する。
「折り返しまでは追い風だったので、これは自己ベストも狙えると思うほど気持ちよく走れましたが、折り返してからは一転、身体が前に出ないくらいの向かい風が吹いてきました。集団について走ればまだ耐えられるのですが、孤立してしまうと苦しいですね。5回目の出場でしたが、一番辛い東京国際でした」
ちなみに完走者は114人(完走率64.4%)で、このレースの出場資格にもなっている2時間30分を切ったのはわずか53人だった。
なお、1981年から続いてきた「東京国際マラソン」の開催は今年で最後。来年は東京の目抜き通りを3万人が走る「東京マラソン」として生まれ変わる。
(2006年2月13日 ランナーズ編集部/幸村)